【会員の広場『希望』】第110号2022(令和4)年度(6/7)

2023.01.19

あの路線にもう一度          


立石 敬一
2022年3月、蔓延防止等重点措置が解除された。世の人達は籠から放たれた鳥のように羽ばたいただろう。しかしその時点でのコロナ感染者数はまだ、「完全に減った」といった感じではない。数カ月経ち、職場から県外への外出が許可され、周りの雰囲気から気持ちが吹っ切れた。よし、行こう。
 8月7日、広島から乗ったのぞみ号、一通りの車内の設備などのアナウンスに加え、座席は回転させず、大きな声での会話は控える旨。空気は数分おきに循環させている旨などが告げられ、もはやウィズコロナでの経済活動を、といった感じに取れた。
 昼過ぎに仙台へ到着。到着した日は仙台周辺の鉄道で未乗車区間の路線に乗る。始めに乗車した仙石東北ラインは、東日本大震災迄は別々だった東北線の塩釜~松島と仙石線の松島海岸~高城町の間に、直接見る事は出来ないが線路同士が接近している箇所がある。そこに橋渡しのように線路を繋ぎ作られたバイパス路線。これを通る事により仙台から石巻への時間短縮となる。
 翌日は三陸鉄道への乗車である。三陸鉄道の起点である盛へ行くには大船渡線を利用する。この路線も東日本大震災後、一ノ関~気仙沼迄は鉄道路線だが、気仙沼~盛間はBRT(Bus Rapid Transit バス高速輸送システム)。分かり易くいえば鉄道自体は廃止せずバスによる代行輸送。つまり、線路を引き直す代わりに道路を作り、そこにバスを通すというものだ。なので盛駅は線路ではなく道路に設けられている正にこれが「道の駅??」。立派な駅舎とみどりの窓口を備えていた。
 盛でやっと三陸鉄道の気動車とのご対面である。盛~久慈間を結ぶ第三セクターだが、東日本大震災以前は途中の釜石~宮古間はJR山田線が運営していた。その為、盛~釜石間は南リアス線、宮古~久慈間を北リアス線に分かれていた。しかし震災により被害も著しく、JR側がこの区間から手を離し、その後第三セクターがこの区間を引き継ぐ事になり、盛~久慈間が「三陸鉄道」となった。いってみればシンプルになった感じにも取れる。しかし全長は163㎞と、これ迄一番長かった松浦鉄道(93.8㎞)をはるかに上回り、日本一の長さに返り咲いた。
 乗車したのは盛発11時8分発宮古行き。三陸鉄道はこれだけの距離を有しながら快速列車などが一本もなく、全てが普通列車である。三陸鉄道はその名の通り三陸海岸沿いを走り、地図上でも海に寄り添って線が引かれているが、意外とトンネルが多い。盛を出発し、大きくカーブするとすぐにその闇は始まる。そんな中にも盛から数えて3つ目に「恋し浜」と言う駅がある。ここは元々「小石浜」という表記だった。しかし沿線でのホタテの養殖が盛んで「恋し浜」というブランド名が付いた事で、この駅も2009年から「恋し浜」という駅名表記となった。単式のホームにちょこんと3分間の停車。山あいの向こうに見える海。そして駅名が表記している看板をバックにカップルで写真に納まる時間は充分にある。恋に目覚めたかと思うとすぐにまたトンネル。幾度となく闇の空間と灯区間が繰り返され釜石に到着。ここから宮古迄が、元JR山田線の区間だ。
宮古へは13時46分着。ここで乗り換えだが乗り換え時間は8分。階段を渡りホームの端迄行かなくてはならない。乗客もそこそこ乗っていて、辛うじて1席空いていたボックス席に腰を下ろす。この先からが長大トンネルが連続し、灯区間はほんの瞬き程度。まるで昼間である事を忘れてしまいそうなほどだ。
三陸鉄道には所々に印象に残る駅があり、人の名前のような響きを持つ田老駅、それに続く新田老駅もその一つだ。新田老駅から2つ進んだ所にある岩泉小本駅は元小本駅。以前ここで下車して小本交通のバスに乗り岩泉迄行き、JR岩泉線に乗った事がある。ただこの岩泉線も災害に見舞われた後、復旧する事なく廃止に至っている。連続していた長大トンネルも途切れ、車内には真夏の陽が戻ってきた。迫っていた山肌も遠のき、15時31分、駅構内にかかる高架橋にかけられた幕の「ようこそ 不思議の国のリアスへ」という文字に出迎えられ終点の久慈に着いた。
 全区間を乗り通してのお客さんの状況は、盛~宮古間が疎ら。宮古~久慈間は辛うじて1席空いていた程度。しかしこれも途中迄で、立ち客が出る程ではなかった。
最近は災害に見舞われ、お客さんの利用も見込めず結局はそのまま廃止になる路線も珍しくはない。そんな中で東日本大震災の壊滅的な被害を受けながらも、周りの人々に支えられ、よくぞ復旧してくれた。二十余年前に初めて乗車し、2020年3月に全線復旧するというニュースは前から聞いていた。復帰後は必ずもう一度乗りに行くという強い願望を抱いており、2年半経った今年、ついにそれを実現する事が出来た。最終日に仙台~品川迄乗った常磐線の特急「ひたち」は原発事故が起き、度々ニュースで聞いた地名、浪江町や双葉町を通る。ここは最後迄不通区間となっていた。こちらも未曾有の大惨事を受けた路線である。その仙台から乗った特急「ひたち」の指定席の番号も3号車11番D席(窓側)。
切符に印字されたこの数字が「東日本大震災の事を忘れないで欲しい」。そう伝えているような気がした。今こうやって鉄道に乗れる事。当たり前の事が極普通に出来る事、これも復旧に携わった人達のお陰である。その人達と今こうやって力強く走る列車のその姿に拍手を送りたくなった。



【会員の広場『希望』】第110号2022(令和4)年度(7/7)

2023.01.19


希望 編集後記


明けましておめでとうございます。
12月に発行予定でしたが、皆さんの原稿をお待ちしたので、1月になりました。
バラエティーにとんだ原稿が集まり、楽しく読ませて頂きました。
年に一度の「希望」です。皆さんもぜひご投稿ください。お待ちしております。
                    文化部 藤谷順子

【会員の広場『希望』】第109号2021(令和3)年度

2021.12.20


【会員の広場『希望』】
第109号2021(令和3)年度

発行:公益社団法人 広島市視覚障害者福祉協会
〒732-0052 広島市東区光町二丁目1番5号
広島市心身障害者福祉センター内
TEL 082-264-4966
FAX 082-567-4977
Eメール:Jimu@hiroshimashi.shisyokyo.jp

目次

1. 病み上がりの世の中で 立石敬一……………………2頁
2. 挑戦 森川能光…………………………………………7頁
3. 近くのスーパーに感謝 藤谷順子……………………9頁
4. 俳句・短歌 森下照彦 ………………………………12頁
5. 川柳 美野洋子 ………………………………………14頁
6. わたしと iPhone 米田かおり ……………………15頁
7. 小学校での講話はびっくり!ドッキリ! 
清水和行 ………18頁
8. 編集後記 ………………………………………………22頁


病み上がりの世の中で
立石 敬一
 巨大なターミナルの片隅から出発する夜行列車に一人乗り込み、現実から逃れるように旅に出る。きらびやかなネオンに見送られ、闇の底を突き進む。軽やかな車輪の響きと心地よい揺れはやがて夢の中に誘い込んでくれる。ふと気づけば外はぼんやりと明るくなっている。列車で迎える朝は格別なものであった。そんな光景を昨日の事のように思い出す。これが一人旅の醍醐味でもあったが、夜行列車も次々と姿を消し、ちょっとした異空間で過ごせる旅も出来なくなった。ならば他に楽しむ方法はないかと色々考えて、少しでも安く、そして早く現地に行って楽しもうではないかという思いから、高速バスも乗った。飛行機も利用した。まだ明るいうちからホテルに入りゆっくりと寛ぐ事もした。そんなスタイルも定着しつつあった2020年3月ぐらいから新型コロナウイルスは世界中を支配し、県外への旅行は元より、県内でも「とんでもない」という前代未聞の事態となった。行けないのであれば鉄道のブルーレイなどを見て楽しもう。という事については、昨年この紙面をお借りして書いた「行きたいのに行けないもどかしさ」である。
 あれから約1年。ワクチン接種も進み、僕も9月に2回接種した。感染者数も減少し、10月には緊急事態宣言も解除された。
パンデミックやクラスターなど、色々聞き慣れない横文字も耳にした。しかしワクチンを2回打ったにも関わらず感染してしまう「ブレイクスルー感染」の話も耳にしたが、世の中は徐々に動き出している様子。ワクチンを2回打った事で僕も体内の準備も整ったという事もあり、そろそろどこかへ……、と思い始めた。
その間にも鉄道界の情報は収集しており、かつて呉線の快速として走っていた「瀬戸内マリンビュー」は「エトセトラ」に名を変えて広島~尾道迄走っている。しかも広島~尾道は呉線経由、尾道~広島は山陽線経由という何とも興味深い列車だっだ。
しかし10月からは広島~尾道往復とも呉線になったとかで、少し残念な思いだった。往復呉線経由であれば、広島~尾道迄この列車で行き、山陽線で福山へ。その後は福塩線と芸備線を乗り継いで広島迄戻るという環状ルートは広島県から出る事もなく、ますます乗りたいという気持ちが強くなり足しげく広島から尾道迄の列車を当たってみたが全て満席。逆に尾道~広島迄の列車に空席があり、しかも窓の方を向いて座る席が空いており確保に成功した。ルートは福山迄ローズライナーで行き、山陽線で尾道。そこからエトセトラに乗ろうというもの。

【会員の広場『希望』】第109号 2/8

2021.12.20
第109号 2/8


 11月13日(晴れ)。1時半過ぎに尾道駅に到着し、尾道ラーメンを食した後、駅前のお土産屋で名物のレモンケーキを幾つか購入。糸崎行き普通列車が出発した直後に、2両編成のキハ40がゆっくりと入線した。ホームにいた人達は列車自体の入線を歓迎するように各々カメラを向ける。
今回用意されていた1号車2番D席に腰を下ろし、出発前の雰囲気を味わう。その窓の方を向いて座る席だが、パーテーションもしっかりと設置してあった。尾道14時38分発、広島17時35分着。所要時間2時間57分。停車駅は三原、忠海、竹原、安芸津、呉の5駅。列車種別である「快速」と文字づらをみる限りでは早そうだが、ご承知の通りこの列車は観光列車な為、乗る事を目的としており、所要時間もそれだけ要している。因みに同ルートを定期列車で辿った場合、呉で快速「安芸路ライナー」に乗り換えたと仮定した場合、所要時間は2時間半程度。
海、そして山、輝く太陽を左に右に見ながらゆっくりと走る。そんな窓から見える景色はまるで生き物のようにも見えた。小さなトンネルを幾つも潜りぬける毎に変わりゆくその様は、まるでスライドショーでもみているかのよう。その幾つかある小さなトンネルの一つ、川尻トンネルは日本一短いトンネルである。安登~安芸川尻の間にあり全長8.7m。これ迄は吾妻線の樽沢トンネル(7.2m)が最短だったが、八ッ場(やんば)ダムの建設により山側に数キロメートルのトンネルを掘り、線路はその中に移設された。その為このトンネルが日本一の短さに返り咲いた。
安芸阿賀を出ると今度は呉線で一番長い呉トンネル(2,582m)に突っ込む。車内灯は蛍光灯の真っ白な光とは違い、観光列車特有の豆電球。車内はその暖かい光に包み込まれ、レトロな雰囲気を醸し出していた。
16時37分、呉を出発。次の停車駅は広島。停車時間は僅かで順調な滑り出し。しかしかるが浜で16分の停車。その間に上下の快速に道を譲る。快速が快速に抜かれるとは……。三原~広間に比べると広~広島間は列車の本数も増えるのでエトセトラのような臨時列車は例え快速とはいえ定期列車の合間を縫って走る事になる。
並行する国道31号線を走る車のライトも目立ち始め、街並みの光も濃さを増す。短いトンネルを幾つか潜るが、その境目もはっきりとは分からなくなっていた。坂、矢野駅とドアの開閉はしないがすれ違いの為に停車。景色をつまみに食べたレモンケーキとコーヒーで満腹になり、心地良い暖房。そして程よい揺れについウトウトしているうち、山陽線と合流し海田市駅を通過。残された向洋と天神川は快速らしいスピードで通過。
広島駅に到着する旨の放送が入った瞬間、我に返った。広島駅は2番線到着。定刻通りである。かつてのように列車で迎える朝も格別だが、夕暮れもまた格別である。これは尾道発の列車で、しかもこの時期だから味わえるものであり、この尾道発の列車を選んで良かったと改めて思った。本来の観光列車ならグループで話に花が咲いたり、時には子供がはしゃいだり、また酒盛りで賑やかになったりというイメージだが、今回、徐々にコロナ前の生活に戻りつつあるとはいえ、満席にも関わらず静かな旅だった。病み上がりの世の中で行って来た今回の旅も存分に楽しむ事が出来た。
このエトセトラの名前の意味はラテン語で「沢山の、その他色々」という。また広島弁でも沢山のという意味は「えっと~~」といい、セトは瀬戸内海のせと。それももじってこのような名前が付けられたそうだ。この「その他色々」という捉え方は人によって違う。この後に及んでは、第6波は?3回目のワクチン接種は?また県外にはいつ頃になると行けるようになるんだろうか?など、その他色々な考えが浮かぶ。列車から降りた時から現実的な事を考えていた。
隣の1番線から、暮れなずむ街の光と影の中、
去りゆく快速「エトセトラ」を見送った。

【会員の広場『希望』】第109号 3/8

2021.12.20
第109号 3/8

挑戦
森川 能光
子供の頃スポーツは、することより観るのが好きで、走ることは苦手でした。二十数年前ブラインドテニスをはじめ、その頃からスポーツをすることも好きになりました。
テニスをするのに、少しでも体力をつけたい思いから、時々家の近所を走るようになりました。
18年前職場の同僚から「平和マラソンに一緒に出てみない」と誘われ、10キロマラソンを走りました。ゴール後10キロなら走れるんだぁ、と爽快な気持ちになりました。
それからは年に数回職場の同僚と10キロの市民マラソンに参加するようになりましたが、ただランニングの練習は、テニスやマラソンの大会前にする程度でした。
それでも最初の数年は、大会に出る度に自己記録を更新していましたが、それ以後はだんだんタイムが落ちていくばかりでした。
5年程前友人を通して、視覚障害者の伴走もされているMさんと出会いました。初対面で「ハーフマラソンや、フルマラソンに一緒に行きませんか」と誘われました。その時は20キロ以上走ること等全く想像できませんでしたが、いつかはフルマラソンに挑戦してみたい気持ちがあったので、2017年2月に初めてハーフマラソンの大会に参加しました。
その日は雨天でしたが、16キロまで順調に走っていました。ただ登り坂で失速、残り1キロには、足に痙攣がきたので、足を引きずりながらのゴールでした。長距離は、練習をしないと走れないと痛感しました。それからは休みの日や夜に伴走者と一緒に、以前よりランニング練習を増やし、ハーフマラソンの大会に年に何回か参加するようになりました。
そして2019年12月1日、那覇のフルマラソンに参加しました。タイムよりとにかく楽しんで完走を目標に走りました。那覇マラソンは、町中がお祭り騒ぎで、おまけに沿道の人が食べ物や、飲み物を配給してくれるので、ペースもゆっくり走っていたこともありますが、30キロ過ぎまでは、順調に走っていました。
しかし30キロを過ぎると、足全体に痙攣が来て、それからしばらくは足を引きずりながらのペースになりました。34キロ過ぎからは、体調も少し落ち着いてきたので、少しずつペースをあげ、37キロ過ぎに残り5キロと聞き、そこからは不思議と元気が出て、さらにペースを上げて42.195キロを完走しました。
ゴールの瞬間疲れより、本当にすがすがしい気持ちでいっぱいになりました。苦手だった走ることが、ちょっと好きになった瞬間でした。
昨年私は50歳になりました。体力は年々落ちて行きますが、色々な目標に向かって、これからも挑戦し続けていきたいと思います。

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