あの路線にもう一度          


立石 敬一
2022年3月、蔓延防止等重点措置が解除された。世の人達は籠から放たれた鳥のように羽ばたいただろう。しかしその時点でのコロナ感染者数はまだ、「完全に減った」といった感じではない。数カ月経ち、職場から県外への外出が許可され、周りの雰囲気から気持ちが吹っ切れた。よし、行こう。
 8月7日、広島から乗ったのぞみ号、一通りの車内の設備などのアナウンスに加え、座席は回転させず、大きな声での会話は控える旨。空気は数分おきに循環させている旨などが告げられ、もはやウィズコロナでの経済活動を、といった感じに取れた。
 昼過ぎに仙台へ到着。到着した日は仙台周辺の鉄道で未乗車区間の路線に乗る。始めに乗車した仙石東北ラインは、東日本大震災迄は別々だった東北線の塩釜~松島と仙石線の松島海岸~高城町の間に、直接見る事は出来ないが線路同士が接近している箇所がある。そこに橋渡しのように線路を繋ぎ作られたバイパス路線。これを通る事により仙台から石巻への時間短縮となる。
 翌日は三陸鉄道への乗車である。三陸鉄道の起点である盛へ行くには大船渡線を利用する。この路線も東日本大震災後、一ノ関~気仙沼迄は鉄道路線だが、気仙沼~盛間はBRT(Bus Rapid Transit バス高速輸送システム)。分かり易くいえば鉄道自体は廃止せずバスによる代行輸送。つまり、線路を引き直す代わりに道路を作り、そこにバスを通すというものだ。なので盛駅は線路ではなく道路に設けられている正にこれが「道の駅??」。立派な駅舎とみどりの窓口を備えていた。
 盛でやっと三陸鉄道の気動車とのご対面である。盛~久慈間を結ぶ第三セクターだが、東日本大震災以前は途中の釜石~宮古間はJR山田線が運営していた。その為、盛~釜石間は南リアス線、宮古~久慈間を北リアス線に分かれていた。しかし震災により被害も著しく、JR側がこの区間から手を離し、その後第三セクターがこの区間を引き継ぐ事になり、盛~久慈間が「三陸鉄道」となった。いってみればシンプルになった感じにも取れる。しかし全長は163㎞と、これ迄一番長かった松浦鉄道(93.8㎞)をはるかに上回り、日本一の長さに返り咲いた。
 乗車したのは盛発11時8分発宮古行き。三陸鉄道はこれだけの距離を有しながら快速列車などが一本もなく、全てが普通列車である。三陸鉄道はその名の通り三陸海岸沿いを走り、地図上でも海に寄り添って線が引かれているが、意外とトンネルが多い。盛を出発し、大きくカーブするとすぐにその闇は始まる。そんな中にも盛から数えて3つ目に「恋し浜」と言う駅がある。ここは元々「小石浜」という表記だった。しかし沿線でのホタテの養殖が盛んで「恋し浜」というブランド名が付いた事で、この駅も2009年から「恋し浜」という駅名表記となった。単式のホームにちょこんと3分間の停車。山あいの向こうに見える海。そして駅名が表記している看板をバックにカップルで写真に納まる時間は充分にある。恋に目覚めたかと思うとすぐにまたトンネル。幾度となく闇の空間と灯区間が繰り返され釜石に到着。ここから宮古迄が、元JR山田線の区間だ。
宮古へは13時46分着。ここで乗り換えだが乗り換え時間は8分。階段を渡りホームの端迄行かなくてはならない。乗客もそこそこ乗っていて、辛うじて1席空いていたボックス席に腰を下ろす。この先からが長大トンネルが連続し、灯区間はほんの瞬き程度。まるで昼間である事を忘れてしまいそうなほどだ。
三陸鉄道には所々に印象に残る駅があり、人の名前のような響きを持つ田老駅、それに続く新田老駅もその一つだ。新田老駅から2つ進んだ所にある岩泉小本駅は元小本駅。以前ここで下車して小本交通のバスに乗り岩泉迄行き、JR岩泉線に乗った事がある。ただこの岩泉線も災害に見舞われた後、復旧する事なく廃止に至っている。連続していた長大トンネルも途切れ、車内には真夏の陽が戻ってきた。迫っていた山肌も遠のき、15時31分、駅構内にかかる高架橋にかけられた幕の「ようこそ 不思議の国のリアスへ」という文字に出迎えられ終点の久慈に着いた。
 全区間を乗り通してのお客さんの状況は、盛~宮古間が疎ら。宮古~久慈間は辛うじて1席空いていた程度。しかしこれも途中迄で、立ち客が出る程ではなかった。
最近は災害に見舞われ、お客さんの利用も見込めず結局はそのまま廃止になる路線も珍しくはない。そんな中で東日本大震災の壊滅的な被害を受けながらも、周りの人々に支えられ、よくぞ復旧してくれた。二十余年前に初めて乗車し、2020年3月に全線復旧するというニュースは前から聞いていた。復帰後は必ずもう一度乗りに行くという強い願望を抱いており、2年半経った今年、ついにそれを実現する事が出来た。最終日に仙台~品川迄乗った常磐線の特急「ひたち」は原発事故が起き、度々ニュースで聞いた地名、浪江町や双葉町を通る。ここは最後迄不通区間となっていた。こちらも未曾有の大惨事を受けた路線である。その仙台から乗った特急「ひたち」の指定席の番号も3号車11番D席(窓側)。
切符に印字されたこの数字が「東日本大震災の事を忘れないで欲しい」。そう伝えているような気がした。今こうやって鉄道に乗れる事。当たり前の事が極普通に出来る事、これも復旧に携わった人達のお陰である。その人達と今こうやって力強く走る列車のその姿に拍手を送りたくなった。